ジャニーズタレント徹底論考

生まれてすぐ豊川稲荷に捨てられたギミック

豊川誕が1975年3月21日、『汚れなき悪戯』でデビューした。ポップス調のアイドルにしては重い感じがする曲だった。それはすなわち、従来のアイドル、明るく輝いている王子様という路線ではないことを意味する。

芸名はメリー喜多川によって命名。「生まれてすぐ豊川稲荷に捨てられ、そこで育った」というギミックから考えだされた。

実際に豊川誕は、戸籍の名前も実親がつけたものではないといわれている。2歳か3歳かも曖昧なとき、父親に捨てられベンチに座っていた豊川誕をスナックの女性経営者が見つけ、保護された。

その時、豊川誕は自分を「ヒロ」と言うだけで正確な名前はわからなかった。児童相談所や市役所の人たちに、「姫路市本町68番地」の「本田孝」という戸籍を作られ、養護施設「信和学園」に入ったという。

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各新人賞のノミネートも常連

豊川誕は、「孤児」を武器に即戦力として売りだされた。岩崎宏美や細川たかしが同期にあたる。ジャニーズ事務所の同年代には井上純一がいた。

汚れなき悪戯

次にリリースした『星めぐり』でヒットチャートに名を連ねた。これはポップスではないが、デビュー曲同様に「不幸な星の下」路線だった。

“競合アイドル”のあいざき進也や城みちるは一年先にデビューしていたため、各新人賞のノミネートも常連になった。

しかし、豊川誕はそうした売り方に不満を持ち、20歳でジャニーズ事務所を辞めてしまう。一説には、そもそも仕事に対する取り組み方が不真面目だったとも言われるが、豊川誕は不幸路線に不満を持っていたともいわれている。

いずれにしても、5年契約の途中(3年目)であったことや、感情のもつれなどもあり、メリー喜多川は 「可愛さ余って、憎さ百倍。事務所がつけた『豊川誕』という名前は使わせない」と態度を硬化させた。

豊川誕は新しい事務所に入り直して 「豊川ジョー」として再出発したものの、テレビのアイドル時代には考えられなかった、地方のサイン会や着物ショーのゲストなどもこなした。

デパートで、”豊川ジョー一日店長〟というタスキをかけてて仝売場に頭を下げて歩き、やっと一曲歌わせてもらえても、契約上の制約から「豊川誕」の歌は歌えなかった。
アイドル帝国ジャニーズ 50年の光芒 (宝島社新書)

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  • 作者: 小菅 宏
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2012/06/09
  • メディア: 新書