ジャニーズタレント徹底論考

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フォーリーブスは、ジャニーズの解散によっていよいよジャニー喜多川に本腰を入れてプッシュされるようになる。この時代は、テレビ番組やタレントのコンセプトが「静から動へ」移っていった時代だった。『シャボン玉ホリデー』のようなバラエティがヒットし、マイクの後ろにつったってしゃべる漫才やコミックバンドにかわって、カメラをはみ出して動き回るコント55号が台頭してきた時代である。もとより、歌って踊るというのはジャニーズ以来の同事務所の伝統といっていい。そうしたタレント育成のコンセプトはジャニーズ事務所の慧眼であるとも思える。
ジャニーズが解散したのは1967年11月20日である。すでに書いたように、ジャニーズが正式に結成された日は1962年4月1日。ということは、実働5年半である。しかも、NHK総合で放送していた『夢であいましょう』で、田辺靖雄のバックとして出演したのが1962年8月。『夢であいましょう』のオリジナルソングとして歌った『若い涙』(永六輔作詞・中村八大作曲)でワーナーブラザーズからレコードデビューしたのは1964年12月である。ということは、レコードを出してテレビに出演する従来型歌手としての活動期はまる3年に満たない。売れなかったのならともかく、紅白歌合戦にも出場して、まだ伸びしろはあったはず。現在の...
フォーリーブスといえば、いわずとしれた、ジャニーズの4人組に続いてデビューしたジャニーズ事務所のグループである。彼らがデビューしたのは1967年である。同年8月の「日劇ウエスタン・カーニバル」では、初めて舞台に出ている。つまり、舞台デビューというわけだ。彼らは、いきなりレコードデビューではなく、まずはジャニーズのバック・ダンサーをつとめ、次に舞台デビューを果たし、ある程度の実績をつけ名前を広めてからレコードデビューした。この手法は、ジャニーズ事務所において、元祖ジャニーズの4人組以来ほぼ全てのグループが蹟襲するやり方である。
ジャニーズの歴史をいいことも悪いことも含めて語るには、ジャニー喜多川のホモセクハラ問題を避けて通ることはできない。ジャニーズのホモセクハラについては何度かトラブルが発生していてるが、1967年9月、その最初の出来事がある。ジャニーズのメンバーと、ジャニー喜多川が新芸能学院を離れるにあたり、学院に彼らの授業料やスタジオ使用料、宿泊費、食費など270万円が未払いであるとして、学院の代表者がジャニー喜多川を訴えている。その際、代表者はジャニー喜多川による「ホモセクハラ行為による引き抜き」であることを法廷で明らかにし、証人も出てきた。ジャニー喜多川ホモセクハラ問題が最初に公然とした事件である。
ジャニーズ。元祖ジャニーズともいわれる。ジャニーズ事務所所属タレント第1号であり、事務所名の由来となった4人組グループである。正式に結成されたのは1962年4月1日。歌って踊れるアイドルグループとして、真家ひろみ(真家弘敏)、飯野おさみ(飯野修賓)、中谷良(中谷良三)、青井輝彦(1967年から「あおい輝彦」に改名)の4名によって結成された。NHKの『夢であいましょう』に出演・レコードも出し、アメリカにも進出した。ジャニーズタレントとして様々なプロモーションを行った。が、彼らは5年後の1967年11月20日に解散している。
ジャニーズは1966年~67年にかけても様々な出来事があった。まず1966年8月28日、ジャニーズは人気絶頂の中で本格的なダンスレッスンのためロサンゼルスに長期滞在する。ワーナーブラザーズとの契約が決まり、予定の滞在期間を延長してLPレコードのレコーディングを開始した。その中から2曲を全世界に向けてシングルリリース。全米デビューに道をつけ、日米を股にかけて活躍する国際的なスターになる……はずだった。
ハイソサエティーというグループが、かつてジャニーズ事務所にいたのをご存知だろうか。本来は「上流階級」という意味で使われているのかもしれない言葉だが、その高貴な名前をつけたグループが存在したのだ。1966年5月、嶺のぼるとジャニーズジュニアに続いて、「ジャニーズの弟分」が誕生した。高橋洋二(リーダー)(キーボード・リードギター)、村田勝美(ドラム)、峯井貴史(峰井貴史)(ベース)、杉征夫(ベース) 、元持勲 (サイドギター)、横内健亨(ギター)らでハイソサエティーが結成された。
ジャニーズといえば、ジャニーズ事務所所属タレント全般を指す代名詞になっているが、本来は所属タレント第一号である、真家ひろみ(真家弘敏)、飯野おさみ(飯野修賓)、中谷良(中谷良三)、青井輝彦(1967年から「あおい輝彦」に改名)の4名によって構成された4人組のグループ名である。ジャニーズ事務所という名称も、ジャニーズの事務所、というのがその名の始まりであることはすべに述べたとおりだ。そのジャニーズが『夢であいましょう』で芸能界デビューはしたが、レコードデビューまでは少し間があったというのはこれまでにも書いたとおり。レコードデビューをしないかぎり、持ち歌がないということだ。
北公次。覚えているだろうか。フォーリーブスのメンバーである。ジャニーズ事務所のタレントとしては、元祖ジャニーズについでデビューしたグループだが、北公次はジャニーズのボーヤとしてジャニーズ事務所の仕事を始めていた。1965年頃から、ジャニーズにはボーヤがつく。名前を松下公次という。後の北公次である。64年に和歌山県田辺市の中学校を卒業後、集団就職で和歌山県の田辺から名古屋に、そして大阪に移り住んだ。テレビで見たジャニーズに憧れ、芸能界に入りたいと思うようになる。
ジャニーズはまたここで新しい経験をする。1965年5月、ジャニーズは待望の初ミュージカル『焔のカーブ』(日生劇場)に出演した。北大路欣也が主演。朝丘雪路、鹿内タカシ、長沢純、日下武史らが出演し、石原慎太郎が演出している。和製ミュージカルとして注目を集め盛況だったという。真家ひろみと長沢純は、当時似ているといわれたが、そのわりには対抗心をもっていがみ合っているという話はなかった。こうしてジャニーズの舞台に出演しているところを見ると、不仲ではなかったことはたしかなのたろう。後に、石原慎太郎原作のドラマ 『太陽の季節』に滝沢秀明が出演するが、すでにこのとき、石原慎太郎とジャニーズ事務所は一緒に仕事を...
オリキ、というジャニーズ用語がある。ジャニーズタレントに対するコアなおっかけファンのことである。ジャニーズタレントについては、ジュニア時代からファン(いわゆる「担当」略して担)が付き、そのファンは「出待ち」をしてジャニーズタレントを追いかけるわけだが、いうなれば、「追っかけ」に「リキ(力)」が入っているファンということである。
ジャニーズは、歌手としては本来のデビューであるレコードデビューの前に芸能界デビューをはたした。日本のテレビ史上先駆的なバラエティ番組といえる『夢であいましょう』に出演をしたのだ。それ自体は大変幸運なことであったが、デビューとしては変則的であった。
ジャニーズ、待望の初舞台は「第19回日劇ウエスタンカーニバル」。1963年1月のことだった。 で初舞台を踏む。ただし、この時点で持ち歌のなかった彼らは、『ロコモーション』を歌う伊東ゆかりのバックで踊っているだけだった。テレビにも『ホイホイミュージックスクール』や『てんですてきなショウ』など、テレビ史に名前が残る歌謡番組にトップスターのバックで踊る出演をしていたが、まだレコードデビューはしなかった。
ジャニーズがいよいよデビューをした。といってもレコードデビューではない。NHK総合で放送していた『夢であいましょう』で、田辺靖雄のバックとして出演したのだ。1962年8月のことである。日本のテレビ史を代表する先駆的なバラエティ番組をスタートとできたことは、ジャニーズにとっては幸運であり、かつ誇らしいことでもあった。
ジャ二ーズ事務所。その正式な創業は1962年6月といわれている。つまり、もう52年になる。渡辺プロダクション預かりだったジャニーズが独立したのだ。といっても、設立や登記ではなく創業と書いたのは、この時点では法人登記をしたわけではなく、ジャニーズの事務所という意味での個人事務所の屋号に過ぎなかったからである。
ジャニーズが正式に結成された日は1962年4月1日である。真家ひろみ(真家弘敏)、飯野おさみ(飯野修賓)、中谷良(中谷良三)、青井輝彦(1967年から「あおい輝彦」に改名)の4名によって、日本で最初に形成された、歌って踊れるアイドルグループのジャニーズが結成された。
ジャニーズはいつ頃誕生したのか。芸能界にこれだけ大きく君臨しているジャニーズ事務所の“最初”はどうだったのかというのは、ファンならずとも知りたいことだろう。ジャニー喜多川がスカウトし、最初にデビューさせたのがジャニーズである。ジャニーズ事務所とは、まさにジャニーズの事務所だったのである。
ジャニーズ事務所というのは、もともとジャニーズという4人組のために創業された事務所である。そして、ジャニーズの4人組といえば、中谷良三(中谷良)、青井輝彦(あおい輝彦)、飯野修賓(飯野おさみ)、真家弘敏(真家ひろみ)のことである。