シブがき隊レコードデビュー
シブがき隊が1982年5月5日、『NAI・NAI16(シックスティーン)』をリリースした。以後、シングル28枚、アルバム13枚など、80年代の歌謡界をリードするヒット曲を連発した。
すでに書いたように、グループ自体は1981年4月17日、さとう宗幸主演の『2年B組仙八先生』に、布川敏和、本木雅弘、薬丸裕英、叶屋博基の4人が出演したことから始まっている。そこから叶屋博基が抜け、3人が公募名の「シブがきトリオ」からシブがき隊としてスタートした。
すでに書いたように、グループ自体は1981年4月17日、さとう宗幸主演の『2年B組仙八先生』に、布川敏和、本木雅弘、薬丸裕英、叶屋博基の4人が出演したことから始まっている。そこから叶屋博基が抜け、3人が公募名の「シブがきトリオ」からシブがき隊としてスタートした。
女子学生が死亡する事件
1982年10月16日、シブがき隊の愛知県コンサートで将棋倒しが発生、女子学生が死亡する事件が発生した。
しかし、そのわりに他のタレントに比べてグループとしての実働期間はそれほど長いとは言えず、1988年11月2日には解散ならぬ 「解隊」をしている。
しかし、そのわりに他のタレントに比べてグループとしての実働期間はそれほど長いとは言えず、1988年11月2日には解散ならぬ 「解隊」をしている。
一千万円闘争
シブがき隊は収入は恵まれなかったようだ。シブがき隊には“一千万円闘争”という言葉があり、一千万円ギャラが欲しくて、テレビ局の楽屋で他の事務所のタレントたちから情報を仕入れていたというエピソードが知られている。
それだけ、ジャニーズ事務所が金銭に対してシビアであったということだが、この当時メリー喜多川は、「わずか十代のタレントに、100万円、200万円というお金を支払うのは、社会的に非常識だと思いませんか。10万円、20万円というお金を持たせただけで、子供たちはおかしくなると思いませんか」
とマスコミ関係者に話している。
しかし、彼らに対して生産に見合った分配をしないための詭弁のそしりは免れず、このシビアさは後に、木村拓哉の独立騒動や、ジャニー喜多川の裁判などで改着せざるを得なくなる。
それだけ、ジャニーズ事務所が金銭に対してシビアであったということだが、この当時メリー喜多川は、「わずか十代のタレントに、100万円、200万円というお金を支払うのは、社会的に非常識だと思いませんか。10万円、20万円というお金を持たせただけで、子供たちはおかしくなると思いませんか」
とマスコミ関係者に話している。
しかし、彼らに対して生産に見合った分配をしないための詭弁のそしりは免れず、このシビアさは後に、木村拓哉の独立騒動や、ジャニー喜多川の裁判などで改着せざるを得なくなる。
シブがき隊が「レコード大賞」最優秀新人賞受賞
シブがき隊は1982年12月31日、「第24回レコード大賞」において『100%…SOかもね!』で最優秀新人賞を受賞した。
「最優秀」は田原利彦、近藤真彦に続いて同事務所のタレントとしては3年連続になる。田原は『誘惑スレスレ』で金賞を、近藤は『ホレたぜ!乾杯』でゴールデン・アイドル賞を受賞した。
シブがき隊は、同じ曲で「第13回放送音楽新人賞」も受賞した。
「最優秀」は田原利彦、近藤真彦に続いて同事務所のタレントとしては3年連続になる。田原は『誘惑スレスレ』で金賞を、近藤は『ホレたぜ!乾杯』でゴールデン・アイドル賞を受賞した。
シブがき隊は、同じ曲で「第13回放送音楽新人賞」も受賞した。
シブがき隊が「紅白」初出場
同日、「第33回紅白歌合戦」にシプがき隊が初めて出場した。曲は『100%…SOかもね!』。
現在は、同番組のジャニーズ枠はSMAPとTOKIOの2つの時代が長く続き、最近はそこにに若手も加わったが、この回は3者(組)が出場した。
中村雅俊、シュガー、三原順子(現三原じゅん子)などもこの年に初出場を果たしている。
現在は、同番組のジャニーズ枠はSMAPとTOKIOの2つの時代が長く続き、最近はそこにに若手も加わったが、この回は3者(組)が出場した。
中村雅俊、シュガー、三原順子(現三原じゅん子)などもこの年に初出場を果たしている。