紅白歌合戦初出場
郷ひろみは1973年12月31日、「第24回紅白歌合戦」に初出場を決めた。NHKホールで行われている。歌ったのは『男の子女の子』。その前年のヒット曲であったが、紅白で歌うのかその時点での最新リリースとは限らない。やはり、郷ひろみにとって象徴的な歌として認められていたのだろう。
他の初出場組は、森昌子、麻丘めぐみ、三善英史、アグネス・チャンなどである。郷ひろみの対戦相手は、そのアグネス・チャンだった。この年は「あ」の当たり年といわれ、安西マリア、浅田美代子、あべ静江などが歌番組で活躍したが、紅白歌合戦に出場した「あ」は、麻丘めぐみとアグネス・チャンだった。
他の初出場組は、森昌子、麻丘めぐみ、三善英史、アグネス・チャンなどである。郷ひろみの対戦相手は、そのアグネス・チャンだった。この年は「あ」の当たり年といわれ、安西マリア、浅田美代子、あべ静江などが歌番組で活躍したが、紅白歌合戦に出場した「あ」は、麻丘めぐみとアグネス・チャンだった。
バーニングプロへ移籍を決意
デビュー以来順調にスター街道を進みつつあった郷ひろみだが、『よろしく哀愁』(73年秋)を歌っていた頃には移籍で悩んでいたという。
「率直にいおう。仕事に対する考え方が事務所とぼくとでズレが生じてきたってことなんだ。いつ、こういうことがあって、といったはっきりしたきっかけがあったわけではない。ぼく自身も意識しないうちに、そのズレは少しずつ隙間を広げ、気がついたときはすごく大きなものになっていた、といえると恩う。
とにかく、仕事仕事でなにかを考えるゆとりなんかない。目の前のことを追いかけるので精いっぱい。ひとつの仕事が終わる。と、ホッとする間もなく次の仕事が待っている。で、とにかくそれをやる。と、また次。毎日毎日がこんな状態の連続。
自分のいまやっている仕事が、どの程度の評価に値するのか、なんて見当もつかない。いや、そんなことは考えられもしないんだ。このままやっていて、一年後、二年後、十年後のぼくはどうなっているのか、なんてもちろんわかりもしない」 (郷ひろみ『たったひとり』小学館)
1972年3月に盲腸炎になったが、まだ抜糸もしていないのに現場に直行して仕事をしたことを「あれはマイナスだったんじゃないかな」と振り返る。
1973年9月には芸能人野球大会で左手を骨折したが、事務所は腕をつって仕事をさせた。スターというのは、どうあるべきかということを知らせるためだと後から認識するも、「あのときは、それより不安が先に立っていた」と述懐している。
その一方で、「金が問題ではない」としながらも、実家に借金があることも告白。「やはり芸能界でやっていくしかない、というのは、はっきりしていた」と述べている。
この頃になると、事務所との間はギクシヤクし、弁護士が間に入っていた。移籍については家族会議や親族会議まで行われていた。そのとき彼に移籍を勧めたのが、マネージャーの小口健二だったという。
「自分のやっていきたい方向があって、それと事務所のやり方が合致しないなら、それはお互いのためにいいことじゃないもの。離れるべきだろうね。そこでどうするかだけど、自分の方針を貫くために行動を起こしたんだから、それが実現できなかったら意味ない。そのためには個人事務所を設立するのがいちばんだ。自分の事務所なんだから、完壁方針は貫ける。でも、危険は多いよ。ほかのプロダクションから圧力はかかる。そのプレッシャーでつぶれた例は多いしね。またバ自分の方針が壁にぶつかったとき、どうしょうもなくなる。ぼくとしては社会的にも業界的にも評価を確立しているプロダクションにはいることをすすめるね。そこで、自分のプロジェクトチームをつくり、他とは別の独立したセクションをつくることだ。かたちはプロダクションに所属しているが、実際の活動は独立しているっていう内容だね。そういうことができるプロダクションを選ぶべきじゃないかな」(同)
郷ひろみは小口健二を信じ、1975年いっぱいでバーニングプロに移籍した。
「率直にいおう。仕事に対する考え方が事務所とぼくとでズレが生じてきたってことなんだ。いつ、こういうことがあって、といったはっきりしたきっかけがあったわけではない。ぼく自身も意識しないうちに、そのズレは少しずつ隙間を広げ、気がついたときはすごく大きなものになっていた、といえると恩う。
とにかく、仕事仕事でなにかを考えるゆとりなんかない。目の前のことを追いかけるので精いっぱい。ひとつの仕事が終わる。と、ホッとする間もなく次の仕事が待っている。で、とにかくそれをやる。と、また次。毎日毎日がこんな状態の連続。
自分のいまやっている仕事が、どの程度の評価に値するのか、なんて見当もつかない。いや、そんなことは考えられもしないんだ。このままやっていて、一年後、二年後、十年後のぼくはどうなっているのか、なんてもちろんわかりもしない」 (郷ひろみ『たったひとり』小学館)
1972年3月に盲腸炎になったが、まだ抜糸もしていないのに現場に直行して仕事をしたことを「あれはマイナスだったんじゃないかな」と振り返る。
1973年9月には芸能人野球大会で左手を骨折したが、事務所は腕をつって仕事をさせた。スターというのは、どうあるべきかということを知らせるためだと後から認識するも、「あのときは、それより不安が先に立っていた」と述懐している。
その一方で、「金が問題ではない」としながらも、実家に借金があることも告白。「やはり芸能界でやっていくしかない、というのは、はっきりしていた」と述べている。
この頃になると、事務所との間はギクシヤクし、弁護士が間に入っていた。移籍については家族会議や親族会議まで行われていた。そのとき彼に移籍を勧めたのが、マネージャーの小口健二だったという。
「自分のやっていきたい方向があって、それと事務所のやり方が合致しないなら、それはお互いのためにいいことじゃないもの。離れるべきだろうね。そこでどうするかだけど、自分の方針を貫くために行動を起こしたんだから、それが実現できなかったら意味ない。そのためには個人事務所を設立するのがいちばんだ。自分の事務所なんだから、完壁方針は貫ける。でも、危険は多いよ。ほかのプロダクションから圧力はかかる。そのプレッシャーでつぶれた例は多いしね。またバ自分の方針が壁にぶつかったとき、どうしょうもなくなる。ぼくとしては社会的にも業界的にも評価を確立しているプロダクションにはいることをすすめるね。そこで、自分のプロジェクトチームをつくり、他とは別の独立したセクションをつくることだ。かたちはプロダクションに所属しているが、実際の活動は独立しているっていう内容だね。そういうことができるプロダクションを選ぶべきじゃないかな」(同)
郷ひろみは小口健二を信じ、1975年いっぱいでバーニングプロに移籍した。