ジャニーズの歴史ははここから始まった
ジャニーズ事務所というのは、もともとジャニーズという4人組のために創業された事務所である。そして、ジャニーズの4人組といえば、中谷良三(中谷良)、青井輝彦(あおい輝彦)、飯野修賓(飯野おさみ)、真家弘敏(真家ひろみ)のことである。
書籍(『ジャニーズの逆襲』データハウスなど)によると、中谷良三、青井輝彦、飯野修賓の少年3人が、明治神宮の米軍基地へラジコン飛行機を飛ばしに行って、アメリカ大使館軍事顧問の喜多川接(ひろむ=ジャニー喜多川)と知り合ったことになっている。中谷良三少年が11歳の時、ジャニー喜多川が28歳になった1958年のことである。
時代は高度経済成長を迎えようとしていた時期。アメリカからの影響でロカビリーブームが巻き起こり、ジャズ喫茶からは、ダニー飯田とパラダイスキングというハワイアンバンドが出現して話題を呼んでいた。
中谷良三少年の言葉を借りれば、「とにかく、みんなが娯楽を求めて人生を楽しみ始めたころ」である。
「『ぼくたち!何してるんだ』ハッとして振り向くと、そこに端正な顔だちの青年が立っていたのです。私は息をのみました。『やばいぞ。怒られる』」(中谷良『ジャニーズの逆襲』データハウス)
中谷良三少年らはこの時、怒られる代わりに、「夢にまで見た」バーシーズのチョコレートをもらう。その当時、日本は戦争に負けて、子供たちは飢えていたのだから、チョコレートの価値は今とは比較にならない。
「『ぼくの部屋にきたらガムもキャンデーもあるよ。遊びにおいでよ』って……ええ、わたしたちはうれしくてついて行きました」(同)
ジャニー喜多川は、ワシントンハイツの中のアパートに住んでいて、チョコレートは山ほどあったから、彼だけでなく、彼の同級生である青井輝彦少年や、飯野修賓少年たちを喜ばせた。
少年たちは、ジャニー喜多川が少年野球のコーチをしていることを知る。
ジャニー喜多川は1950年頃から、現在の代々木公園近くにあったワシントンハイツの公園で休日に野球をする少年たちと親善試合を行うなどして、少年たちの間では影響力のある青年であった。球団名はジャニーズ球団であった。
ジャニー喜多川には当時、東京・四谷でカウンターバー「スポット」を営む姉・喜多川泰子(メリー喜多川) がいた。
店は駐留軍からの最新のアメリカの音楽やグッズ、そして、雑誌、チョコレートなど、あらゆるものが店の中に並べられ、アメリカ軍のグッズがある店として有名だった。
真家弘敏少年はやはり11歳のとき、大型のアメリカ車に乗るジャニー喜多川にスポットへ連れて行ってもらった。同店のカウンターの中にいるメリー喜多川から、当時としてはめずらしいスパゲッティ‥、『-トソースを食べさせてもらったと自著で述懐している (『ハイ!どうぞ ジャニーズ・タクシー奮闘記』 マガジンハウス)。
野球のコーチをする親切な青年、ジャニー喜多川は、彼ら4人の少年たちと芸能活動を行うことになる。
ここから、光も影もあるジャニーズ事務所の歴史が始まるのである。
時代は高度経済成長を迎えようとしていた時期。アメリカからの影響でロカビリーブームが巻き起こり、ジャズ喫茶からは、ダニー飯田とパラダイスキングというハワイアンバンドが出現して話題を呼んでいた。
中谷良三少年の言葉を借りれば、「とにかく、みんなが娯楽を求めて人生を楽しみ始めたころ」である。
「『ぼくたち!何してるんだ』ハッとして振り向くと、そこに端正な顔だちの青年が立っていたのです。私は息をのみました。『やばいぞ。怒られる』」(中谷良『ジャニーズの逆襲』データハウス)
中谷良三少年らはこの時、怒られる代わりに、「夢にまで見た」バーシーズのチョコレートをもらう。その当時、日本は戦争に負けて、子供たちは飢えていたのだから、チョコレートの価値は今とは比較にならない。
「『ぼくの部屋にきたらガムもキャンデーもあるよ。遊びにおいでよ』って……ええ、わたしたちはうれしくてついて行きました」(同)
ジャニー喜多川は、ワシントンハイツの中のアパートに住んでいて、チョコレートは山ほどあったから、彼だけでなく、彼の同級生である青井輝彦少年や、飯野修賓少年たちを喜ばせた。
少年たちは、ジャニー喜多川が少年野球のコーチをしていることを知る。
ジャニー喜多川は1950年頃から、現在の代々木公園近くにあったワシントンハイツの公園で休日に野球をする少年たちと親善試合を行うなどして、少年たちの間では影響力のある青年であった。球団名はジャニーズ球団であった。
ジャニー喜多川には当時、東京・四谷でカウンターバー「スポット」を営む姉・喜多川泰子(メリー喜多川) がいた。
店は駐留軍からの最新のアメリカの音楽やグッズ、そして、雑誌、チョコレートなど、あらゆるものが店の中に並べられ、アメリカ軍のグッズがある店として有名だった。
真家弘敏少年はやはり11歳のとき、大型のアメリカ車に乗るジャニー喜多川にスポットへ連れて行ってもらった。同店のカウンターの中にいるメリー喜多川から、当時としてはめずらしいスパゲッティ‥、『-トソースを食べさせてもらったと自著で述懐している (『ハイ!どうぞ ジャニーズ・タクシー奮闘記』 マガジンハウス)。
野球のコーチをする親切な青年、ジャニー喜多川は、彼ら4人の少年たちと芸能活動を行うことになる。
ここから、光も影もあるジャニーズ事務所の歴史が始まるのである。
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