ジャニーズタレント徹底論考

井上純一が1974年夏、ジャニーズ事務所合宿入りした。早稲田大学高等学院のテニス部出身で、郷ひろみをもう少し男っぽくしたようなさっぱりとした好青年だった。郷ひろみが移籍した直後だったので、ポスト郷ひろみとして期待された。

9月には、山縣孝良が脱退したJJS(ジャニーズ・ジュニア・スペシャル)に加入するが、すぐに脱退している。井上純一個人では7枚のシングルをリリースしている。

井上純一の場合、歌よりも映画やドラマでの活躍が中心だった。とくに、『俺たちの朝』に出演以来、中村雅俊主演の『青春ド真ん中!』『ゆうひが丘の総理大臣』、宮内淳主演の『あさひが丘の大統領』、さらに自身が主演した『黄土の嵐』、そして西田敏行主演の『池中玄太80キロ』など、立て続けにゴールデンタイムに放送された日本テレビのドラマに出演した。

ただ、それは厳密に言えば、ジャニー喜多川が目指した歌って踊れるスターとは少し違う路線だったかもしれない。
続きを読む≫ 2014/06/03 15:23:03
葵テルヨシというタレントを覚えているだろうか。葵は文字通り「あおい」と読む。かつてのジャニーズタレントである。1973年6月21日、ポリトールレコードから、葵テルヨシ名で『かんじる10代』でレコードデビューした。

葵テルヨシのキャッチフレーズは「フォーリーブスの弟、ジャニーズ一家の末っ子」だった。

かんじる10代

ジャニーズ事務所は、現在もファミリーというコンセプトを持っている。所属タレントはジャニー喜多川の子どもという位置づけなのだ。ということは、所属タレント同士は兄弟である。

さすれば、葵テルヨシはフォーリーブスの弟分になるわけだ。

だが、当時はまた郷ひろみも在籍していた。そして、郷ひろみも5番目のフォーリーブスという弟分的位置づけだった。

そこで、キャッチフレーズとしては長くなるかもしれないが、たんなる弟分だけでなく、「ジャニーズ一家の末っ子」と加えたのだろう。

本来、キャッチフレーズというのはひとつのセンテンスで決めるものだが、そこはジャニー喜多川翁のことだ。従来の考え方にこだわらず、独自であってもいいと思ったものを打ち出していくのだ。

当時、葵テルヨシという芸名には重い意味があり、それほどジャニー喜多川が期待したタレントと言われていた。

しかし、フォーリーブスのようにブレイクはせず、シングル7枚、アルバム2枚リリース後、1976年に指揮者・豊岡豊の娘との結婚を期に歌手を引退。

名前も葵テルヨシから葵てるよし、つまりカタカナからひらがなに改名した。

しかし、その後設立した芸能プロダクション(アオイコーポレーション)では、風間トオル、美木良介、細川茂樹、玉木宏らの売り出しに成功した。
続きを読む≫ 2014/06/02 14:14:02
郷ひろみは1973年12月31日、「第24回紅白歌合戦」に初出場を決めた。NHKホールで行われている。歌ったのは『男の子女の子』。その前年のヒット曲であったが、紅白で歌うのかその時点での最新リリースとは限らない。やはり、郷ひろみにとって象徴的な歌として認められていたのだろう。

男の子女の子

他の初出場組は、森昌子、麻丘めぐみ、三善英史、アグネス・チャンなどである。郷ひろみの対戦相手は、そのアグネス・チャンだった。この年は「あ」の当たり年といわれ、安西マリア、浅田美代子、あべ静江などが歌番組で活躍したが、紅白歌合戦に出場した「あ」は、麻丘めぐみとアグネス・チャンだった。
続きを読む≫ 2014/06/01 19:19:01
郷ひろみがジャニーズタレントであったことを覚えている人、いや、知っている人はどのくらいいるのだろうか。1971年から、フォーリーブスに弟分が登場した。高校1年生の原武裕美、後の郷ひろみである。

彼のレコードデビューは翌年だが、この頃からフォーリーブスに脇を固められ、ジ・オズモンズやジャクソン・ファイブの歌を踊りながら歌っている。

郷ひろみのジャニーズ事務所入りのキッカケは、東宝映画『潮騒』のオーディションに、彼の知り合いの婦人が無断で応募。ジャニー喜多川がその履歴書から彼を見出したと自著(郷ひろみ著『たったひとり』小学館)で述懐している。
続きを読む≫ 2014/05/31 01:45:31
内田喜郎をご存知だろうか。『奥さまはlS歳』(TBS)などに出演していた青春スターである。その内田喜郎が、なんとジャニーズ事務所からレコードデビューをしていたのだ。大映の倒産後、ジャニーズ事務所所属として『ミスター・ロビンソン』(日本ビクター)で歌手デビュー。

その後、内田喜郎は事務所もレコード会社も移籍したが、歌手活動は続けている。正確に言えば「所属していた時期があった」というだけだが、それでも、ジャニーズタレントとしてデビューしたことは紛れもない事実である。
続きを読む≫ 2014/05/30 19:20:30
フォーリーブスは、ジャニーズが解散した時点で、ジャニーズ事務所の大黒柱タレントだった。彼らの活躍が事務所の殺生与奪を決める。彼らはその期待と責任に応えるだけの活躍をしている。1970年のフォーリーブスは、ブロマイドの月間売上げ1位に輝いたほか、歌手としては勲章であった紅白歌合戦の出場を達成している。そのときの歌は『あしたが生まれる』だった。

1970年、この年、フォーリーブスがブロマイドの売上げが男性歌手部門の1位(4月)になった。このときの1位は、千葉真一、にしきのあきら、岡崎友紀、フォーリーブス、吉沢京子、いしだあゆみ、森田健作、安倍律子、ジュークボックス、小川知子などである。なんとも懐かしい顔ぶれである。

フォーリーブスとともに、ジューク・ボックスが1位になっているのは特筆すべきことだろう。

すでにGS(グループサウンズ)は衰退期にあったが、郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹の新御三家が台頭するまでの間、トップアイドルとして君臨する。
続きを読む≫ 2014/05/29 18:37:29
ハイソサエティーが1970年11月、CBSソニーから『世界へジャンプ ハイソ・サンライズ・プレゼント』でアルバム(LPレコード)デビューを果たした。1971年10月には、CBSソニーの新レーベル「EPIC」の第1号タレントとしてシングルレコードを発売している。

普通、レコードデビューはシングルをリリースしてからアルバムを出すものだが、その意味でアルバムが先になったのは異例のことであった。
続きを読む≫ 2014/05/28 02:44:28
ジューク・ボックスを覚えているだろうか。ジャニーズ事務所に所属した結成当時5名のグループである。もっとも、そこからメンバーはどんどん入れ替わったのだが……。

ジャニーズ事務所では、ジャニーズがデビューして解散。次にフォーリープスがデビューしたが、すでにこの頃から、事務所にはジャニーズJr.と呼ばれる予備軍たちがいた。

その中から、小谷典由(純)、円谷弘之、行田和彦、近藤昌、吉本暁弘といったアイドル雑誌の人気投票上位者を集めて結成されたのが、ジューク・ボックスである。
続きを読む≫ 2014/05/27 14:05:27
永田英二というジャニーズタレントがいたのをご存知だろうか。もともとはフォーリーブスの一員だったが、小学生ということで青山孝にメンバーチェンジした。

だが、ジャニーズ事務所のプッシュはそれで終わったわけではなく、1968年9月にハイソサエティーのボーカルに加わり、しばらくの間「永田英二とハイソサエティー」の名で活動。そして1969年8月20日、『あこがれ』 でレコードデビューした。

永田英二は劇団若草の子役出身だが、父親がジャニーズ事務所のダンス講師だったことから1966年に入所した。そして、記念すべき、ジャニーズ事務所所属タレントのソロ第1号となる。
続きを読む≫ 2014/05/26 15:31:26